大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(あ)1004号 決定

主文

本件上告を棄却する。

当審における未決勾留日数中九〇日を本刑に算入する。

理由

弁護人井上正治の上告趣意は、判例違反をいうが、原判決が共謀時における条件付故意は刑法における故意として何ら欠けるところはないというときの条件付故意とは、故意は単純に存在し、これに基づく実行行為だけが条件にかかつている場合を指していることが明らかであり、所論の趣旨で刑法における故意は無条件のものでなくてもよい旨の判断を示しているわけではないから、所論は前提を欠き、適法な理由にあたらない。

判旨なお、原判決の認定したとろによると、被告人は、栁田及び小森との間で、被害者らがこがねビル四階の山川方に押し掛け又は喧嘩となるなどの事態になれば被害者を殺害するもやむないとして、同人殺害の共謀を遂げ、その際、現実に殺害の実行に着行すべき右の事態については、栁田ら現場に赴く者の状況判断に委ねられた、というのである。そうすると、謀議された計画の内容においては被害者の殺害を一定の事態の発生にかからせていたとしても、そのような殺害計画を遂行しようとする被告人の意思そのものは確定的であつたのであり、被告人は被害者の殺害の結果を認容していたのであるから、被告人の故意の成立に欠けるところはないというべきである。

よつて、刑訴法四一四条三八六条一項三号、刑法二一条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(藤﨑萬里 団藤重光 本山亨 中村治朗 谷口正孝)

弁護人井上正治の上告趣意

原判決は、被告人にたいし殺人の共謀共同正犯を認めるに当り、とりわけ共謀時においては条件的殺意であつても故意として欠けるところはないと判示した。しかし、刑法における故意は無条件のものでなくてはならないことは定説であり、それは共謀時においても異なるところはない。けだし、共謀共同正犯における共謀とは、「共同意思の下に一体となつて互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議」(最判昭和三三年五月二八日刑集一二巻一七一八頁)であり、先に確定的な意思が存しなくては、「各自の意思を実行に移す」ということは考えられないからである。

とりわけ共謀時においては、条件的故意でも故意として欠けるところはないという原判決は、右の最高裁判所判例をはじめとし、共謀共同正犯に関する数多くの同判例の趣旨とするところに違背するといわなくてはならない。

第一 共謀時においては条件的故意なるものが認められるか

一 控訴趣意書において、第一審判決が「条件付故意」を認めたものではないかにつき、もしそうであれば、これは法令の解釈を誤つたものであるとして、次のように主張しておいた。すなわち、第一審判決は「勝敏らが山川宅を襲撃したり警護に当つている被告人岩崎らとの間で喧嘩になつたりするような事態にでもなればこれに応戦し、この際、勝敏らを殺害するもやむなしと決意し」と判示し、また「一誠会のもんがやつけん、一誠会のもんがやりきらんときは小森お前がやれ。……」と判示したが、これは被告人の殺意を条件にかからせていることになるのであり、およそ刑法上条件的故意なるものは存しないが故に、第一審判決は被告人に条件的故意を認めた点において、刑法の解釈適用を誤つた。

これにたいし、原判決な、「通常いわれる条件的故意、とりわけ共謀時の条件的故意は刑法における故意として何ら欠くところがないものといわなければならない」(一九丁表)として、次のように判示し、右の控訴の趣意を排斥した。

よつて按ずるに、およそ、故意の存否は実行に着手する時点において認識さるべきものであるとすれば、いわゆる条件付的故意もそれが現実化する実行の時点においてみることになるので、もはやその時点では条件的ではあり得ない。その意味では、条件的故意なるものが存在しないことは所論のとおりである。(なお、条件的故意は広い意味では未必的故意と同視されるが、未必的故意は実行の時点でも未必的たりうる点において、右の条件的故意とは異る。)

しかしながら、実行に着手する以前の時点、例えば共謀の時点においてみれば、当該犯意が条件的に存在しうることは否定できないところである。尤も、共謀時に条件的であつた故意も実行分担者の着手の時点においては、もはや条件的ではないので、前示のとおり故意は常に条件的たり得ないといえるわけである。ともかく、故意をそのように狭く且つ厳密に限定すると、共謀時の条件的故意の多くは、故意が条件付となるのではなくて、故意は単純に存在し、これに基づく実行行為だけが条件にかかつている場合であるということができよう。そうしてみれば、通常いわれる条件的故意、とりわけ共謀時の条件付故意は刑法における故意として何ら欠くるところはないものといわなければならない。(大審院大正一四年一二月一日第一刑事部判決、最高裁判所昭和二五年八月九日第二小法廷判決参照)

その前半部分は、原審において、検察官がいわゆる条件的故意なるものがあるかのように答弁したことにたいし、本弁護人が条件的故意なるものは存在しないことにつき具体的にあえて陳述したことに応じて判示したものと思われる(同じ趣旨のことは原審弁論にも援用しておいた)。それゆえ、その判示したところには異存はない。

ドイツの文献をみれば、とくに、条件的故意として、まず未必の故意のことに言及しながら、「しかしながら犯罪実行の決意は無条件でなくてはならない」と論じるのである。すなわち、未必の故意はあるが、条件的故意はないということである。

人を殺すという故意はあるが、人に向けて弾丸を一〇〇〇メートルだけ飛ばすという殺人未遂の故意なるものはない。裏木戸が開いていたら、忍び込むという故意はない。裏木戸が開いているのを見たとき、そこで、忍び込もうと決意したとするならば、そのとき故意があつたということになるのであり、それより前、裏木戸が開いていたら侵入しようと考えたときに、すでに故意があつたというのではない。

二 しかし、原判決が判示した右の部分のなかで、その後半の判示は大きな疑問がある。

まず第一に、その末尾においては、「通常いわれる条件的故意は刑法における故意として何ら欠くるところはない」と判示しているが、この趣旨のことは、原判決がその前半において、「その意味では、条件的故意なるものが存在しないことは所論のとおりである」と判示したことと果して一貫するものか。そこに矛盾はないということだろうか。

それは或いはたんなる措辞の問題にすぎず原判決の本旨はそこにないというのであれば、さしあたりおくとしても、原判決がその末尾において援用した二つの判例は、決して本件に適切なものとは思われない。

たしかに、前者の大判大正一四年一二月一日(刑集四巻六八八頁)は、その判決要旨として、「条件付殺意を有する者が殺人に関し予備の行為を為したときは殺人予備罪を構成す」とかかげているが、その事実をみると、「激昂の余り酒気に乗じ同人を殺害して報復せんことを共謀し各日本刀を携え……」、他の者に阻止され同人らが一たん相手方と交渉することになつたので、「其の交渉の結果如何に依りて右決意を実行せんことを期し……日本刀を携えたるまま……その結果を待受けて居た……」というものである。この事件は、条件付殺意があつたにすぎなかつたという事案ではなく、すでに殺意は確定的に存し、いつ実行するかという点において交渉の結果をまつていたにとどまる。こうみてくると、この事件は被告人が条件付殺意を有していたものという事案ではないので、大審院が、被告人は条件付殺害の意思を有していたものというべく、「殺害の決意を為したりと為すには必ずしも死の結果を確定的に希望又は認識したることを要せざるを以て右の如き条件付殺害の決意も亦殺害の決意たることを失わざるや勿論なりとす」と判示したことは、上告理由にひきづられての説示であり、余りにも不用意な判旨であつた。学説において異論のないごとく、故意は無条件でなくてはならないからである。

次に、原判決が引用する後者の判例(最判昭和二五年八月九日刑集四巻八号一五六二頁)は、その控訴審判決が認定した事実をみるとき、「たまたま昭和二十二年十月二十四日夕刻右芦沢、愛甲等が自己及びその一家を襲撃しようと同市駒井田町の遊廓地帯に同志を糾合中との情報を入手したので痛く憤激し、先手を打つて同人等を襲撃膺懲し場合によつては殺傷沙汰に及ぶも止むなしと決意し」たという事案であつた。それ故、最高裁判所が『原判決にいわゆる、「場合によつては殺傷沙汰に及ぶも止むなしと決意し、」又は「成行によつては相手を殺傷することも辞せざる意図の下に」とあるのは、被告人等が右決意したときにおいて既に相手方を殺害することあるべきことを期していたことを意味するもので原判決は被告人等が相手を殺害する犯意を以つて判示行為を敢行した事実を認定判示したものであることは原判文自体に徴し明らかである』と判示したことは、至極当然のことであつた。条件付故意の問題を云々する事案ではない。けだし、「場合によつては……」「成行によつては……」といわれてはいても、その前にすでに、「同人等を襲撃膺懲し」ようと決意している事案であつたからである。本件のごとく、「勝敏らがこがねビル四階の山川方に押し掛け又は喧嘩となるなどの事態になれば、勝敏を殺害することもやむをえない」とする事案とは異なるものである(一九丁表ないし裏)。ここにはまだはつきりした殺意はみられない。もつとも原判決には、この共謀の内容につき、その九丁裏においては、「勝敏らがこがねビル四階の山川方に押し掛け又は喧嘩となるなどの状況に応じて、同人らを殺害しようと決意するに至り、ここに……共謀が成立したことは否定できないところである。」と判示するところがあり、両者のニュアンスは大分違う。一方は「殺害することもやむをえない」とするものであり、他は「殺害しようと決意するに至り……」というものである。後者においては、或いはすでにはつきりした殺意があり、たんにその実行の時期はまだあいまいだつたということになるかも知れない。しかし、一九丁表ないし裏の判示は、いつてみれば、本件における殺意の存在について、原判決が総括して判示したところのものとみるべきであるから、本判にあつては、原判決は、この点につき、「……事態になれば、殺害することもやむをえない」と認定したとみるべきであろう(「やむなし」という趣旨の決意であつたとする点は、原判決において再三判示されていることも、右の理解のための有力な資料とみるべきである。五丁裏一〇行、六丁裏一一行、九丁表七行等。)。

三 ところで、原判決が、「しかしながら、実行に着手する以前の時点、例えば共謀の時点においてみれば、当該犯意が条件的に存在しうることは否定できないところである。尤も、共謀時に条件的であつた故意も実行分担当事者の着手の時点においては、もはや条件的ではないので前示のとおり故意は常に条件的たり得ないともいえるわけである。」としたところにたいし、条件付故意なるものは存しないとする立場から、反論を加えておかなくてはならない。

「例えば共謀の時点においてみれば、当該犯意が条件的に存在しうることは否定できないところである。」というが、果してそうか。共謀の事案においては、現実には話し合いの過程のなかでお互に影響し合い(相互教唆、相互精神的幇助の複合した形態)、そして次第に犯意が形成されていくことは少くない。この「犯意形成」の実態をみるとき、いかにも「当該犯意が条件的に存在する」かのようにうつる。しかし、正しくは、まだ犯意が条件的にしか存在していないときには、共謀は成立していないというべきであり、共謀が成立したとみられるときには、犯意は確定的になつている。「凡そ共同正犯者が共同正犯者として処罰される所以のものは、共犯者が、共同意思の下に一体となつて、互に他人の行為を利用して自己の意思を実行に移す点にある」(最判昭和二二年一一月五日刑集一巻一頁)のであり、「自己の意思を実行に移す」ということは、その「自己の意思」が確定的になつていなくてはならないことは当然のことである。いわゆる練馬事件では、「共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となつて互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した」ものと判示する(最判昭和三三年五月二八日刑集一二巻一七一八頁)。ここでもまた、「各自の意思を実行に移す」と判示しているのであつて、各自の意思がかりに条件的であつたとするならば、その段階では各自の意思はまだあいまいであつて、「各自の意思を実行に移す」ということにはなりえないのである。共謀がいわゆる共同加工の意思を含むものである以上、一般の故意のばあいと同じく、その内容は確定的でなくてはならない。

さらに原判決はいう、「尤も共謀時に条件的であつた故意も実行分担者の着手の時点においては、もはや条件的ではないので、前示のとおり故意は常に条件的たり得ないともいえるわけである。」と。共謀者のうちでも実行行為をなす者(いわゆる実行行為者)については、或いはそうはいえても、共謀だけをなしたにとどまる者(いわゆる正犯行為者)については、そうはいえない。それとも、共謀共同正犯のばあいには、二人以上の者により「共同意思主体」が形成され、そのうちの一人の実行行為はすなわちこの共同意思主体の活動であるから、共同意思主体を形成する各人のなかに条件的故意を有する者があつたにしても、共同意思主体の活動とみるかぎり、「前示のとおり故意は常に条件的たり得ないともいえるわけである。」ということになるのだろうか。しかし、いわゆる共同意思主体説にたいする批判のことは別としても、条件的故意を有するにすぎない者はまだ「共同意思主体」を形成することはないのである。こうして検討して来ると、原判決の考えるところには強い疑問が残る。

原判決は、これに続けて、次のように結論した。「ともかく、故意をそのように狭く且つ厳密に限定すると、共謀時の条件的故意の多くは、故意が条件付となるのではなくて、故意は単純に存在し、これに基づく実行行為だけが条件にかかつている場合であるということができよう。」と。この部分が前半の論旨を論理的にどうつながるものであるかという点については、必ずしも十全に理解しうるところではないが、「故意は単純に存在し、これに基づく実行行為だけが条件にかかつている場合」のあることはいうまでもない(原判決の引用する二つの判例の事案がまさにその例であつた)。しかし、共謀時においていまだ故意が条件的であり、「単純に存在し」ないばあいは、果してどう考えることになるのだろうか。いまはこれが問題である。原判決も「共謀時の条件的故意の多くは、……」と制限的に説いているのであるから、そのすべてが「実行行為だけが条件にかかつている場合」であるとはいえないわけである。かくて、だから「共謀時の条件付故意は刑法における故意として何ら欠くるところはない」と一挙に結論できないことは明白なところである。原判決は誤つている。〈以下、省略〉

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